働きたくない
働きたくない。疲れるし。
生物畑の人間なので、「進化」のことを「生存、繁栄に都合のいい性質の選別」だと信じている。キリンは「高いところの葉っぱを食べるために首を長くした」のではなく「たまたま首が長い個体が現れ、高所の葉っぱを独占できたため生き残った」のだ、という具合に。
そう考えると、「働きたくない」という感情が大勢にまかり通っているのは結構不思議だ。人間は肉体的なハンデを社会や文明を形成することでカバーしてきたのに、それらのための根本的な行為である「労働」に嫌悪感を覚えるのは不自然だ。「労働最高!喜んで社会に貢献します!」という性質の個体が多い方が種の繁栄には有利なはずなのに。
資料
今日は休日だったが、仕事で使うパワポ資料を完成させなければならない日だった。
仕事といっても厳密には自己研鑽に分類される行為なので、残業代の類はない。考えすぎて息苦しくなったことがあるので、あまり業務と自己研鑽の境目は考えないようにしている。
いざ終えてみると不思議なことに、特に用事がない休日よりも充実感を得られたように感じる。1時間ほど作業したあとに休憩と称して娯楽に触れる、といったことを繰り返しているうちに完成した。ひと仕事仕上げたあとのこの感じは好きだ。絵を仕上げたあとの多幸感に近い。
これが資料作りの必要ない、普段の休日だったならどうだろう。無為に娯楽に触れ続け、日が暮れる頃には幸福感よりも虚無感が勝る休日になっていたかもしれない。すべてが空白の休日より、多少は義務・やらなければならないことがある休日の方が幸せになれるかもしれない。
「こうはなりたくない」
飛行機を降りる時、自分の倍の年齢はありそうな男性2人が「どちらが先に降りるか」について口論をしていた。
「こういう年のとり方はしたくないな」という言葉が浮かぶと同時に、先日聞いたウェブラジオのことを思い出した。曰く、「『こう』なりたくないという感情は、『こう』なりそうな人にしか湧かない」らしい。全く違う人間ならばそのようなことはそもそも思い浮かばないのだと。
その日は自分も時間に少し余裕がなく、「早く降りたい」と考えていたし、そのために前方の席に座っていた。手荷物も預けていないので、「5分早く降りる=5分早く動ける」という状態だった。この差で快速電車を逃してしまったら、時間のズレは5分では収まらない。
座席が違えば、「俺が先に降りようとしてただろ」と言われていたのは自分だったかもしれない。性格上、口論するようなことは多分ないが、「我先に」という気持ちに近しいものを感じたための嫌悪感だったのかもしれない。
活動的な休息
午前中に面接があり、思った以上に疲弊してしまった。午後は何もできないな、と思いながら暫く天井を見上げていたが、結局庭の草むしりをしたりスクワットをしたり絵を描いたりした。
何かしら活動することで逆に疲れを癒す、と言った話を最近読んだが、その片鱗を味わったように感じる。
と見せかけて普通に疲れたな。頭がぼーっとする。
運動
久々に全く予定のない休日だったので、公営の体育館でランニングをしてきた。
今年に入ってからランニングが続いている。スマホで記録を遡ったら、2月から週1〜2回ペース、1回5キロ30分を走り続けているらしい。タイムや距離などの記録を伸ばしたいという欲は無いので、このペースで緩く続けていくのが自分の中の理想だ。
はっきり言うと運動は苦手だ。疲れるし。可能ならフィットネスとは無縁な人生を送りたいのだが…いろんな人間の発言や書籍に触れると、「運動した方がいい」という発言は高頻度に現れるのに対して「運動しなくても良い」という文字列はびっくりするほど現れない。運動って、この世界で幾つかある「とりあえずやっておいた方がいいこと」の一つらしい。(他には挨拶などがある)
自分の場合は、ここ数年で体調を崩すことが明らかに増えたので、健康目的で運動をしている。健康効果は自分ではよくわからないが、運動した翌日などは頭が少しスッキリして仕事や趣味が捗るようになったのが少し嬉しい。
面接
転職の面接をした。面接が始まるまでは緊張しまくっていたが、いざ始まると思ったより普通に話せた。先方のマイク音質が悪く聞きとりづらかったので、緊張してる場合ではなかった。
新卒の就活以来の面接だったが、やる度に「イメージ上の面接」と「実際の面接」の差が大きくて驚く。自分は面接に対して、「1つの質問に対して、淡々と1人で話し続ける」というイメージを勝手に抱いているが、実際に自分がしたことのある面接はどれも「会話」に近い。一つの質問に経験や根拠を含めて長々と語り続けるという行為をしたことがない。そして面接を終える度に「あの堅苦しい喋り方で、1人で延々と喋る面接って実在するのか…?」と思う。業種の違いだろうか。